創部 1941~

明治大学体育会ヨット部の草創期

戦火の中に始まったヨット部の歴史

神宮外苑で行われた「出陣学徒壮行会」(昭和18年10月21日)出展 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/yobi-gakuto.htm 1941年(昭和16年)6月15日、横浜で開催された「第8回関東学生ヨット選手権」に明治大学が初出場(二部4位)。これ以前から活動していた形跡はあるものの、確かな記録が残っていないため、明治大学体育会ヨット部はこの日を以て発足とする。この年の12月8日、日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争が勃発。まさに戦火の中に明大ヨット部の歴史は始まった。
 戦時色濃厚な当時の世相を反映し、その頃のヨット部の正式名称は「海洋部国防訓練部帆走班」。クラブが所有していたのはA級ディンギー7艇とキールボートのオリンピック種目であるスター級1艇。部長は武田孟教授(後の明治大学学長)で、初代主将は森島通がつとめた。
 その後、1943年(昭和18年)の第10回関東インカレでは二部ながら初優勝を飾るなど、順調な滑り出しを見せた明治大学ヨット部だったが、戦局の悪化にともない同じ年の10月に学徒出陣がはじまり、インカレなど学生ヨットの活動は完全に休止。本学ヨット部も主将を始め、多くの部員が学徒出征で戦地へとかり出され、創部3年目にして早くも活動の休止を余儀なくされた。まさに混乱の草創期となった。

戦後の混乱期に体育会加盟

 1945年(昭和20年)の敗戦により、各大学のヨット及び艇庫等が進駐軍に接収されてしまったため、戦後しばらく明治大学ヨット部は完全な休部状態に置かれた。
 そんなヨット部に再び息を吹き込んだのが、1947年(昭和22年)に商学部に入学した前田昭夫(公認会計士・故人)だった。前田は、中学時代の先輩で日大ヨット部に在籍していた川井郁夫氏の勧めで明大ヨット部の復興を決意し、戦前の資料集めに奔走し、1948年(昭和23年)の秋に学生ヨット連盟と明治大学体育会に正式加盟が認められ、1949年(昭和24年)4月より正式に明治大学体育会ヨット部として掲示板にて部員の公募が行われた。
 この公募になんと150名を超える応募があったというから、終戦から間もなく物資も乏しい時節にありながら、当時の学生たちの意気軒昂ぶりには今さらながら驚かされる。
 戦後初の主将は前田が務め、部長には再び武田孟教授が、そして初代監督には、当時大学のすぐそばにあった河出書房に勤務していた伊藤徳男(1946年卒)がその任に就き、明大ヨット部は体育会のクラブとしての体裁を整えていった。