先輩/後輩の上下関係は厳しいんですか?

体育会というと、先輩/後輩の上下関係が厳しくて、理不尽な命令にも従わなくてはいけないというイメージがありますが、実際はどうなのですか?

指揮命令系統を明確にしています。


 大学の体育会と一般的な高校の運動部の違いは、高校の部活動が常に顧問教諭の指導の下に行われるのに対し、大学の体育会、特に明治大学の体育会は、伝統的に学生主体の運営がされているという点にあります。もちろん大学の体育会にも監督やコーチという存在はありますが、いずれも社会人のOBが仕事の合間を縫って現役の活動を補佐するという性質のもので、日々の部の運営は学生自身に委ねられています。大学生たるもの、上級生は既に成人ですので、自分たちのことは自分たちで決定して、運営していくべきだという考え方です。
顧問教諭という絶対的な指導者が存在する高校の運動部なら、先輩も後輩も同じ生徒として平等に振る舞っても問題は起こりませんが、学生以外の指導者が常に現場に存在するわけではない大学の体育会では、学生の中で誰がリーダーシップをとるのかをはっきりさせておく必要性があり、そこで発生したのが先輩/後輩の上下関係というのが歴史的な経緯です。
 最近の学校教育では「自分が納得できないことはしなくていい」という考え方が主流となっているようですが、それぞれが自分の思想で勝手な振る舞いをしたら組織は機能しません。特に、海の上、船の上で、各々が勝手な判断で行動したら、それこそ命にすら関わります。
 常にリーダーたる上級生の判断が最良であるとは限りませんが、組織がバラバラに行動することよりも、全部員がリーダーの決断に従い、一丸となって行動することの方がリスクは少なくてすむという考え方です。古今東西、船の上では船長の判断が最優先されることになっています。仮に国家元首が同乗していたとしても、海に出たなら船のことは船長が全責任を持って判断を下すのです。

意外と合理的な年功序列というシステム


 リーダーシップという概念は、専ら個人の能力に依存するものではなく、リーダーに従うフォロワーシップとの相互関係において成り立つものであるとの認識に立った上で、先輩/後輩という関係は上下関係というよりも、リーダーとフォロワーという関係で捉え直すべきでしょう。リーダーに付与された権限とは、クラブを代表する大きな責任を背景とした使命に他ならず、下級生に対して横暴に振る舞うための権限ではもちろんありません。また、フォロワーたる下級生も、唯々諾々と上級生の命令に従うことが役割ではなく、仮にそれがリーダーの意向に反するものであっても、臆することなく自分の意見をきちんとテーブルの上に載せ、しかしながら最終決定は穏やかにリーダーの判断に委ねるという毅然たる態度を貫いてこそ、真のフォロワーシップといえるのです。年功序列というシステムは、上級生から下級生へとベクトルが一方向に向かうようなものではなく、リーダーを演じる上級生と、フォロワーを演じる下級生の協力によって成り立つ脆弱なフィクションに過ぎません。そのフィクションをシステムとして機能させる鍵は、互いの信頼関係はもちろんのこと、こうしたシステムの構造への理解です。
 上級生だからというだけでリーダーとなるのは合理的ではないという意見もあるでしょう。しかし、毎年メンバーが入れ替わる組織において、誰がリーダーシップにおいて適任であるかを、毎年毎年全部員の中から選出することが果たして合理的な結果をもたらすでしょうか? 大学生とはいえ、人格的にはまだまだ半人前の人間の集団の中で、「よりマシな一人」を探すためにエネルギーを費やすことよりも、部員としての自覚と経験値を3年かけて高めた人間の中から順繰りに主将を選出するというシステムは、毎年メンバーが入れ替わる大学の体育会という社会において十分に合理的なものであり、また人間養成の場としても有効なものだと考えます。
 とはいえ、人間がやることですから、上記のような本来の理念はいつの間にか形骸化し、上級生が下級生に対し理不尽な振る舞いをすることが「体育会的」であるという解釈が、まかり通ってしまっていた時期が過去に何度もあったことは否定できない事実です。そんな状況に陥ってしまったとき、戦う集団であるべき体育会としての戦闘能力は低下しているものです。
 私たちは、上級生、下級生、さらにはスタッフを含むOB全体で、この年功序列というシステムが健全に機能すべく努力と監視を怠るべきではないと考えています。